「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張に対する反論

はじめに

 「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張をする人がいる。高校時代の教員にそういう人がいたし、この前は就活イベントでも見かけた。きっと人を鼓舞するためにそう言っているのだろう。しかし、後で述べるように、この主張には多くの欠陥があるし、何よりこの主張は、数多くの「犠牲者」の遺族や友人たちの思いを踏みにじる悪しき言説であり、そういった人々に対する冒涜・侮辱であるように私には思える。したがって、断固として反対しなくてはいけない。

 この文章は、「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張に対する反論を提示するために書かれた。また、予想される再反論、それに対する反論も記載している。主張の運び方に何か欠陥があったり、反論やコメントのある方はぜひ@contradiction29のDMまでメッセージをお寄せいただきたい。

 

 

反論①:死ぬ気でやった場合には本当に死ぬ可能性がある

大前提:人間は死ぬ

  人間は確実に死ぬ。死ぬタイミングや死に方は人によってばらつきがあるが、「確実に死ぬ」ということだけは変わりはない。どれだけ賢かろうと、「動物」の域を出ることは不可能だ。それが人間の限界だ。人間は確実に死ぬ生き物だ。

死ぬ気でやって死んだ人々

 厚生労働省の発行する令和二年度版の過労死等防止対策白書によれば、勤務問題を原因として自殺した人の数は令和元年度には1949人に上った。ここ数年はだいたい1900人前後を維持している。また、文部科学省の「児童生徒の自殺者数に関する基礎資料集」によれば、小中高に通う学生のうち自殺したのは、令和元年度では339人だった。令和2年度では479人である。

 自殺した人の多くは、それこそ「死ぬ気」でやっていたのだろう。その結果として精神が限界を迎え、自ら命を絶った。死ぬ気でやって死んだ人間は確実に存在している。「死ぬ気でやれよ、死なないから」と言って鼓舞した人間はそのことを自覚しているのか?彼ら彼女たちは、人間が限界を持っている弱い生き物であることを認めず、力は無限であるかのように錯覚させ、限界以上の力を引き出させ、結果的に死に追いやった。自分たちが殺人にも等しい行為をやっていることを理解するべきだ。

 

反論②:生存バイアスを他人に押し付けるな

 ここまで聞いてきた死ぬ気でやれよ論者の方はこう思うだろう。

いや、でも私は死ぬ気でやってうまくいったんだ。だから相手もそれでうまくやれると思ったんだ。

あなたが死ぬ気でやって死ななかったのは運が良かっただけだ。「運」の構成要素として考えられるのは

  • 実家の経済状態(「太さ」):生活水準に直結する
  • パートナーの有無:精神的安定に直結する
  • 両親の理解、周囲のサポート:精神的安定に直結する
  • もともとの自頭の良さ
  • 運の良さ(あなたの時代にコロナショックは起こったか?リーマンショックは?東日本大震災は?)

などが考えられるが、今あなたの目の前にいる相手は、自分がかつて持っていたこれらの要素を本当に持っているのか自問するべきだ。人間の個人的な能力には限界がある。それを自覚せず、すべて自分の能力や努力のおかげで今ある地位を達成したのだ、と主張することは驕りであり、欺瞞である。自分がたまたま生き残っただけで、見えていないところには大量の死体が転がっていることを理解していない。

 

再反論

 ここまで聞いてきた死ぬ気でやれよ論者の方はこう思うだろう。

「いや、そんなことはよくわかっている。しかし、そう思うことによって救われるかもしれないじゃないか。やる気が出るじゃないか。鼓舞するために私は言ったんだ。」

  自己責任論で人間は救われない。個人の実力で何が変えられるだろう?あなたがもう少し賢かったら、コロナ禍はすぐに収束していたか?あなたが頑張れば、東日本大震災は起こらなかったか?そんなことはないだろう。人間はマクロ的なショックに対してあまりにも無力だ。個人でできることには限界がある。

 個人が間違っている場合もあるだろう。しかし、社会が間違っている場合だってあるはずだ。社会の間違いを個人が受け入れなくてはいけない道理などないはずだ。

 

おわりに

 何か反論があったらお願いします。

 

参考文献