健常者エミュレータ

はじめに

 原理的には、あらゆる前提条件は特定の個人や状況、主義に結びつけられたステートメントとして相対化することが可能だ。人間の限られた脳ミソを節約するため、普段はこの相対化は特定の範囲内でしか行わない。しかし、その相対化を論理的かつ広範囲に行い、あらゆる前提条件を無効化していけば「異常者」が生まれる。

 「異常者」とは前提条件を共有することができない人間のことを指す。そして「健常者」とは前提条件が共有された人間のことを指す。むろんこれらの「前提条件」は集団ごとによって異なるため、ある集団においては異常者の人間が別の集団では健常者となる、といった事態は起こりうる。「異常者」も「健常者」も、本質的に相対的な概念に過ぎない。

 異常者による行動は健常者には予測不可能なものであり、認知的不協和を引き起こし、健常者のごく限られた脳ミソを食い尽くしてしまう。そのため、健常者は異常者を排除し、自分たちが持つ権益・利益を独占しようとする*1程度の問題ではあるが、異常者は素でふるまっていると健常者集団からの排除という大きな不利益を被ってしまうため、健常者のふりをする必要が出てくる。その際に必要になるのが「健常者エミュレータ」だ。

 健常者エミュレータとは、ある特定の状況をインプットとし、その際に健常者がとるであろう行動をアウトプットとする、思考のシミュレーターである*2。健常者エミュレータは学習と経験によって精度を上げていくことが可能だ。また、健常者によって独占された世界にくさびをうがち、部分的に破壊し、居場所を確保するために有効な手段ともなるだろう。

 この文章では、健常者エミュレータを定義し、それをどのように構築していくか説明する。そののちに、健常者エミュレータの精度を上げる方法について説明する。健常者によって支配された場で異常者が健常者のフリをするのは非常な労力と苦痛を伴う行為だが、経済的に生きるためにはしょうがないことなのだろう。 

 

健常者エミュレータとは何か

 具体例から考えてみよう。雑談をしている最中、相手から以下のような発話があったとする。

「今日は天気が悪くなりそうだね」 

 この場合、健常者であればどのような答えを返すだろうか?次の三つの選択肢の中から選んでみよう。

  1. 「嫌な天気ですね。天気が悪いと気分も悪くなります。」
  2. 「ところで今朝のヤフーニュースのトップ記事みましたか?」
  3. 「だからなんですか?」

 健常者であれば1を選ぶだろう。2は相手の発話を全く受け止めていないことを示している。3は敵対的発言と受け止められかねない発話だ。

もう一つ例を考えてみよう。

「今度子供が産まれるんですよ」

  1. 「そうなんですか。それは良かったですね」
  2. 強産魔がよ 赤ちゃんに存在の許可はとったのかよ?」
  3. 「地獄へまっしぐらですね。お気の毒に...」

 もちろん健常者であれば1を選ぶだろう。

 健常者エミュレータとは、このように、「健常者であればどのように行動をするのか」を経験と学習によってシミュレートする思考装置のことだ。行動には発話も含まれるし、自分が健常者である必要はない。健常者とは「自分と前提条件が同じ人間」のことを指す、相対的な概念である。あくまでも健常者のふりができていればそれで十分だ。

 より正確な健常者エミュレータの定義を行う。

健常者エミュレータは、

  1. 「ある特定の状況」をインプットとし
  2. 「健常者ならとるであろう行動」をアウトプットとする
  3. if~then形式で定義された
  4. 論理の集合体
を構築する思考装置のことである

 if~then形式というのは「このような場合であればこのようなことをする」という意味である。

 繰り返すが、自分自身が健常者である必要性は全く存在しない。あくまでも仮想的に健常者が行うであろう思考を擬態できれば、健常者のふりをすることは充分可能だ(ただし疲れる)。

 

健常者エミュレータの構築

 ではこの健常者エミュレータをいかに構築していくべきなのだろうか?以下では、健常者がどのように考えているのかを三つの軸をもとに分解し、整理していく。健常者の思考の軸は三つ存在する。コンプライアンス意識、コミュニケーション能力、善性である。

 人間は矛盾する生き物であり、その矛盾の中に人間としての本質が存在する。これら三要素は時として互いに矛盾することがあるが、このことによって「人間らしさ」を再現することが可能となる。エミュレータは人間の思考に沿ったものでなくてはいけない。人間の思考の本質は矛盾にあり、その矛盾を再現することが人間を再現することにつながる。それがあえて軸を三つも用意する理由である。二つでは少なすぎるし、四つ以上では多すぎて思考装置としては失格だ。

コンプライアンス意識のエミュレート

  コンプライアンス意識とは、法律や社会的な規則に対して公には叛逆しないという意思を示すことである(バレないように裏でこっそりやる分には問題はない。ただし、「バレない限りでは」)。

 法律とは、明確に定められた刑法、民放、労働基準法などのことある*3違反した場合の罰則が定められていない法律も中には存在するが、コンプライアンス意識をエミュレートする場合にはそのようなものも考慮に入れる必要がある。

 法律は明文規定がある。しかし「社会的な規則」は明文規定がある場合と無い場合がある。具体的なものとして考えられるのは、以下のようなものである。

 コンプライアンス意識は、細かなところはその時々の法や社会的な状況によって異なる。しかし、根本的なところは「法律」か「社会的な規則」のどちらかに回収される。

コミュニケーションがあるかのように見せかけるエミュレート

 「コミュニケーションがうまく取れている状態」というのは、相手が言っていることを理解できており、なおかつ自分が言っていることが相手にうまく伝わっている状態のことを言う。

 人間は自分とコミュニケーションが取れない人間を恐れ、敵とみなし、殺してきた。就活でコミュニケーション能力が求められるのも、そういった負の歴史を引き継いでいるからなのだろう。

 コミュニケーションが取れたところですべての問題が解決されることはない。しかし、あらぬ誤解を防ぐことは可能だ。

善性のエミュレート

 遵法意識とコミュニケーション能力だけではアイヒマンが出来上がるだけだ。つまるところ法や社会的な規則というのは過去に多数派によって形成・固定された善であり、過去に善であったものが現在も善であるという保証はどこにもない。

 その限界を乗り越えるためにエミュレートする必要があるのは「善性」だ。善性とは善に対して接近しようとする性質のことである。しかし、善とは何か、というのは時代や状況、所属する集団によって異なるため、一概には定義不可能な問題である。

 健常者エミュレータを構成する三要素の中で、コンプライアンス意識やコミュニケーション能力があるかのように見せかける擬態は比較的難易度が低い。それらの知識は共通して幅広く求められるものであるため、参考書はたくさんある。しかし善性はそうはいかない。「善とは何か」という問いに答えられる人間はそう多くない。

 であるからには、健常者エミュレータの質を決めるのはこの「善性」エミュレータの出来である。善性を擬態するのは難しいが、例えば企業であれば採用情報にある「求める人物像」、大学であれば大学入試のアドミッション・ポリシーなどに書かれている「求める学生象」などが「善として想定されているもの」を推定する際の参考になる。むろんこれらは「建前」に過ぎないため、注意が必要だ。

 

 コンプライアンス意識・コミュニケーション能力があるかのように見せかける擬態、そして善性があるかのように見せかける擬態―これら三要素を軸に健常者エミュレータを構築する。そしてエミュレータのアウトプットをもとに行動し、間違いがあった場合はこの三要素いずれの部分にあったのかを特定し、修正する。正しかった場合はそのままにする。このように健常者エミュレータは構築される。

 注意すべきなのは、特定の種類の状況においては、これら三つの軸は相互に矛盾する結果を導き出す場合があるということだ。人間は本質的に二つ以上の価値観を持っている、矛盾を抱えた生き物であり、このエミュレータはその矛盾も再現の対象とする。

 健常者は人間でありコンピュータではない。コンピュータは矛盾を受け付けないが、人間は矛盾を抱える。

おわりに

 健常者エミュレータを使えば、自分自身が健常者にならずとも、健常者特有の思考を体得し、あたかも自分が健常者であるかのようにふるまうことができる。健常者エミュレータは異常者が健常者らしく振舞うためのツールである。

 また、健常者エミュレータを構築するのには、もう一つ意味がある。それは、本来の自分とは切り離してエミュレータを構築することで、二つ以上存在する自我の境界を明確にし、それらが混同することを防ぐことである。アイデンティティ・クライシスを防ぐためにも有効な措置になるだろう。

参考文献

*1:異常者を排除することは健常者の集団的凝集性を保つために有効な措置となることにも注意する必要がある。

*2:インプットをある特定の論理の体系に基づいて処理し、結果をアウトプットする行為を「シミュレーション」もしくは「シミュレート」、論理体系をまねることそのものを「エミュレーション」もしくは「エミュレート」と呼んで区別する。

*3:日本国憲法は国民に守ることが義務として課せられているわけではない。したがって政治家や官僚ではない限り、守る必要はない。

親子関係の欺瞞性

はじめに

 一般に親子関係は無条件的に賛美されがちである。テレビでは親子関係のハッピー・サクセスストーリーが放送され、書店では親子の奇跡の物語が平積みされている。結婚をして子供を持つことが社会的なステータスであるとみなしている人間の数は計り知れない。

 しかし、本当にそうなのだろうか。親子関係は本当に賞賛されるべきものであるのだろうか。私はそうは思わないし、それなりの根拠もある。

 親子関係が欺瞞である理由は二つある。一つは経済的な側面からの理由だ。親子関係は子供の経済的な依存性をダシにして親が子供に従属を強いる反奴隷的な関係である。もう一つはより本質的な性質を持つ。親が子供に対してできる最善のことは子供を産まないことであって、教育を受けさせるなどの行為はすべて「次善の策」にすぎず、欺瞞である。

 親子関係の欺瞞そのものだけではなく、そういった欺瞞をエゴで隠そうとする親たちの醜さについても言及する必要があるだろう。本来子供はセックスの結果として生まれた「本能の産物」にすぎないが、それを美談で覆い隠し、欺瞞を画そうとする行為は非難に値する。

 この文章は、親子関係の欺瞞性について告発するために書いた。想定される反論やそれに対する再反論をもとに、ロジックを構成していく。すべての強産魔が地獄に落ちることを心から願っている。なお、これを書くにあたり過去に自分が書いた文章(https://note.com/ravenewreal/n/n7166bc68cc81)を参照した。

 

 

親子関係が欺瞞である理由①:経済的な側面

 現代日本においては子供が経済的に独立することは難しい。アルバイトができるのはだいたい16歳からであるし、高校生ができるアルバイトの時給などタカが知れている。やろうと思えばできるかもしれないが、その場合は学業がおろそかになること必定であり、大きな犠牲を払わなくてはならない。つまり子供は親に対して経済的に従属せざるを得ない。

 それをいいことにして、親は子供に対していうことを聞くよう強制することができる。私のいうことを聞けないのであれば、経済的な支援を引っ込めると言われれば、大半の子供はいうことを聞かざるを得ない。

 つまり、親は子供の経済的な依存性を利用して、子供を半奴隷化しているのである。この暴力性は特筆に値するだろう。子供は親を選べないし、経済的な独立を達成することは事実上不可能だ。親にとっては奴隷を一人手に入れたも当然のことであろう。

 

親子関係が欺瞞である理由②:本質的な側面

 以上のようなことを書けば、以下のような反論は考えられるだろう。

いや、私はそのようなことは決してしていない。子供に対して常にベストな教育を与えてきた。多少厳しいこともしたかもしれないが、それはすべて子供のためを思ってやってきたことだ。私は子供をちゃんと独立した人格として扱ってきた。 

  この人間は、「親の視点」でしか見ていない。かけているのは「生まれてきた子供の視点」である。

親が子供に対して与える苦痛の総量は、子供が人生で受ける苦痛の総和に等しい。親が「産まない」という選択をすれば子供が受ける苦痛の総量は0であった。子供が受ける苦痛のすべては、親が存在の許可をとらずに子供を強産したことに起因している。

 親が子供に対してできる最良のことは「産まない」ことである。例えば、自分で放火しておきながら消防車を呼んで初期消火に当たる放火魔に対しては「それなら最初から産まなければ良かったのに」と思うであろう。強産の場合も話は同じで、教育を受けさせたりすることはすべて「次善の策」に過ぎないし、「最良の策」は充分達成可能なはずである。

 そもそも、教育を受けることが子供にとっての主観的な厚生を高めるかどうかは甚だ疑問である。よほどの天才でもない限り、良い学歴を得るためには多くの勉強をこなし、激しい競争を勝ち抜いていかなくてはいけない。果たしてその競争が子供にとって「良いこと」なのだろうか?

 次善の策をとったからといって、欺瞞ではないと主張するのは愚かなことだ。最良の策だってとれたはずなのに。

 

親子関係の欺瞞をエゴで隠そうとする行為

ここまで、二つの理由から親子関係は欺瞞であると主張してきた。以下のような反論(笑)が想定されるであろう。

いや、愛情はすべてに勝るんだ!

  この短い言葉に、親子関係の欺瞞性をエゴで隠そうとする強産魔特有の身勝手さが凝縮されている。ミルは『自由論』の中で、このような主張に対して手厳しく批判しているので引用しよう。

一個の人間存在をこの世に生み出すこと 、それは人生のうちでもっとも責任を伴う行為である 。この責任を引き受けること──親にとって災難にも祝福にもなりうるものに生命を授けること──は 、生まれてくる子どもの人生が望ましいものになる見込み 、少なくとも人並みになる見込みがないのであれば 、まさしく子どもにたいする犯罪である 。(『自由論』、ミル)

 この強産魔(ミルのことではない)は、人間の本能が不可避的にもたらしてしまう不幸を全面的に肯定している。強産魔特有のエゴイズムとは、このような本能に対する盲目的信仰である。彼ら彼女らが言っている「愛情」というのは要は本能のことだ。本能は不幸を産んできた。

 愛情とは性欲に他ならない。性欲は子孫を残そうとする人間に埋め込まれた本能に過ぎない。この世界から不幸をなくしていくためには、その本能を相対化し、抗っていく必要がある。私が述べてきたのはそのようなことだ。

 スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチは「歴史を知らない者は悪を産む。そして何も生み出さない」と書いた(『白ロシアの子供たち』)。我々は強産魔によって生み出された不幸の歴史を真摯に見つめ、その反省を生かし、本能に抗っていくべきだ。

 この世界は苦しみであふれている。貧困、飢餓、性暴力、構造的な暴力、犯罪、事故、戦争、腐敗、政治不信、経済的ショック、未来への不安.... 具体例を挙げればキリがない。これらの苦しみから逃れる脱出口は「死」をおいてほかに存在しない。しかし死ぬのはだれだって難しい。怖い。それならば、最初から生まれてこないのが最善であるはずだ。

 運よくこれらの不幸から逃れることができる子供もいるだろう。しかし、子供にとってそれらはすべて「運」によるものだ。もしあなたの親が暴力的な人間だったら?家計に余裕がなく、塾に行けなかったら?アクセルとブレーキを踏み間違えたプリウスが突っ込んできたら?大地震が起こったら?リーマンショックが再来したら?

 人間が努力でなんとかできる範囲はゴマ粒のように小さい。あなたはすでに不幸にあるかもしれないし、あなたの見えていないところでは死体が山積みになっている。運次第ではこうなっていたかもしれないし、今は元気でも明日にはそうなっているかもしれない。一寸先は闇だ。

 死が現実的でない以上、人間は生まれないことによってのみこれらの不幸から逃れることができる。

おわりに

  以上、親子関係が欺瞞であると考える理由を、経済的な側面と本質的な側面に注目して主張してきた。また、その主張に対する予想される反論、それに対する再反論も記述してきた。

 親子関係は欺瞞である。子供は経済的に親に従属せざるを得ないが、親はそれを利用して子供を半奴隷化することができる。また、親が子供に対してできる最良のことは子供を産まないことであり、ベストな教育を受けさせることではない。この世界は苦しみで満ちており、このような世界に子供を産むことは子供に対する著しい加害行為である。我々は本能が今まで果たしてきた悪の歴史を真摯に見つめ、それに抗っていく必要がある。

「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張に対する反論

はじめに

 「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張をする人がいる。高校時代の教員にそういう人がいたし、この前は就活イベントでも見かけた。きっと人を鼓舞するためにそう言っているのだろう。しかし、後で述べるように、この主張には多くの欠陥があるし、何よりこの主張は、数多くの「犠牲者」の遺族や友人たちの思いを踏みにじる悪しき言説であり、そういった人々に対する冒涜・侮辱であるように私には思える。したがって、断固として反対しなくてはいけない。

 この文章は、「死ぬ気でやれよ、死なないから」という主張に対する反論を提示するために書かれた。また、予想される再反論、それに対する反論も記載している。主張の運び方に何か欠陥があったり、反論やコメントのある方はぜひ@contradiction29のDMまでメッセージをお寄せいただきたい。

 

 

反論①:死ぬ気でやった場合には本当に死ぬ可能性がある

大前提:人間は死ぬ

  人間は確実に死ぬ。死ぬタイミングや死に方は人によってばらつきがあるが、「確実に死ぬ」ということだけは変わりはない。どれだけ賢かろうと、「動物」の域を出ることは不可能だ。それが人間の限界だ。人間は確実に死ぬ生き物だ。

死ぬ気でやって死んだ人々

 厚生労働省の発行する令和二年度版の過労死等防止対策白書によれば、勤務問題を原因として自殺した人の数は令和元年度には1949人に上った。ここ数年はだいたい1900人前後を維持している。また、文部科学省の「児童生徒の自殺者数に関する基礎資料集」によれば、小中高に通う学生のうち自殺したのは、令和元年度では339人だった。令和2年度では479人である。

 自殺した人の多くは、それこそ「死ぬ気」でやっていたのだろう。その結果として精神が限界を迎え、自ら命を絶った。死ぬ気でやって死んだ人間は確実に存在している。「死ぬ気でやれよ、死なないから」と言って鼓舞した人間はそのことを自覚しているのか?彼ら彼女たちは、人間が限界を持っている弱い生き物であることを認めず、力は無限であるかのように錯覚させ、限界以上の力を引き出させ、結果的に死に追いやった。自分たちが殺人にも等しい行為をやっていることを理解するべきだ。

 

反論②:生存バイアスを他人に押し付けるな

 ここまで聞いてきた死ぬ気でやれよ論者の方はこう思うだろう。

いや、でも私は死ぬ気でやってうまくいったんだ。だから相手もそれでうまくやれると思ったんだ。

あなたが死ぬ気でやって死ななかったのは運が良かっただけだ。「運」の構成要素として考えられるのは

  • 実家の経済状態(「太さ」):生活水準に直結する
  • パートナーの有無:精神的安定に直結する
  • 両親の理解、周囲のサポート:精神的安定に直結する
  • もともとの自頭の良さ
  • 運の良さ(あなたの時代にコロナショックは起こったか?リーマンショックは?東日本大震災は?)

などが考えられるが、今あなたの目の前にいる相手は、自分がかつて持っていたこれらの要素を本当に持っているのか自問するべきだ。人間の個人的な能力には限界がある。それを自覚せず、すべて自分の能力や努力のおかげで今ある地位を達成したのだ、と主張することは驕りであり、欺瞞である。自分がたまたま生き残っただけで、見えていないところには大量の死体が転がっていることを理解していない。

 

再反論

 ここまで聞いてきた死ぬ気でやれよ論者の方はこう思うだろう。

「いや、そんなことはよくわかっている。しかし、そう思うことによって救われるかもしれないじゃないか。やる気が出るじゃないか。鼓舞するために私は言ったんだ。」

  自己責任論で人間は救われない。個人の実力で何が変えられるだろう?あなたがもう少し賢かったら、コロナ禍はすぐに収束していたか?あなたが頑張れば、東日本大震災は起こらなかったか?そんなことはないだろう。人間はマクロ的なショックに対してあまりにも無力だ。個人でできることには限界がある。

 個人が間違っている場合もあるだろう。しかし、社会が間違っている場合だってあるはずだ。社会の間違いを個人が受け入れなくてはいけない道理などないはずだ。

 

おわりに

 何か反論があったらお願いします。

 

参考文献

ベトナム旅行記2018 ①出発前

はじめに

 この文章は、三年前の2018年9月に、ホーチミンからハノイまで、バックパッカースタイルでベトナムを縦断したときのことを、記憶や記録、日記から再構成したものです。2.3年前のことなので、細かい数字や出来事には若干の齟齬はあると思います。

 今は2021年1月で、旅行してから2年と4か月が経ちました。時間が経ったからこそ、いろいろ思うことは出てきて、文章にしてみたいと思ったので、文章にしました。実際に旅行したときは、いろいろ日本人旅行者の方のブログとかを参考にしたので、そういった方々に対する恩返し的な意味も込めています。インターネットの発展のために。

 出発は2018年9月9日、東京はまだ暑く、セミがミンミン鳴いていた時期です。帰ってきたのは9月24日、東京は秋に入った時期でした。正味では13日間ベトナムにいたことになります。初めての海外旅行にしては、必要以上に長く、みじめな旅行でした。事の起こりは2016年12月、高校2年生のころまでさかのぼります。

出発前の前

 2016年、高校2年生の12月、それまで熱中していた部活をやめて、気持ちの行き場がなくなってしまいました。そのままでは手持ち無沙汰なので、受験勉強に力を入れたら、今度は受験勉強が終わってしまいました。「高校を出て、大学に入れば自分は救われる」と、かなりざっくりした、「信仰」とでもいうべきものを胸に秘めて、大学に入学しました。

 でも、大学は、漠然とした、あまりも受動的な信仰に報いてくれるような場所ではありませんでした。決して大学が期待外れだったわけではありません。教員や学生など、大学には素晴らしい人がたくさんいます。素晴らしい図書館だってあります。ただ僕が、見当はずれで過剰な期待をしていただけでした。神に祈って何もせず、ひたすら救済を待ち続けるようなものでした。大学は、受動的な人間に対しては何もしてくれないのです。当時の僕はそれを知りませんでした。五月病にかかってしまいました―旅行から帰ってきてわかったのですが、これは旅行に対しても同じのようです。あまり旅行に対して受動的な期待をするべきではありません。

 ある日、ふと、バックパッカーでもしようかと思いつきました。バックパッカーをすれば、何か面白いものが見つかるかもしれない。人生を費やすに値するようなものが、どこかから”降ってくる”かもしれない。一度そう思い込むと、その思いが頭の中を反射して、次第にその勢いは増幅していきました。こうなるともう止まりません。

 バックパッカーをするなら東南アジア、ベトナムしかない、と、当時は無条件に思い込んでいました。理由は特にありません。きっと、治安が良くて、物価が安ければどこでもよかったのでしょう。ベトナム戦争に興味があった、というのも理由になるかもしれませんが、理由なんてどうだってよいことでした。タイでも、東ヨーロッパでも。

 こうして僕は、ベトナムバックパッカーをしに行くことに決めました。どうやらビザなしで行ける最長期間は14日間だそうです。それなら、細長い国なのだから、縦断してやろう、と決めました。当時の僕は、まだ知りませんでした。14日間というのはあまりにも長すぎます。たいていの人はベトナムに3日間もいれば満足してしまい、14日間もいればカーツ大佐のようになってしまうでしょう。だいいち金が足りません。でもそんなことはお構いなしです。

事前準備編:金と飛行機チケット

 行先はベトナム、14日間で、ホーチミンからハノイまで縦断するということだけは決まりました。ハノイからホーチミンでも別によかったのですが。後はお金をためて、チケットをとって、装備をそろえて出発するだけです。情報収集も忘れずに。

 高校生のころためていたお年玉が結構な額あったのですが、チマチマ使ってしまったせいで心もとない金額になっていました。日雇いのアルバイトで稼ぎましょう。装備代は、バックパック含めて25000円くらいだったと思います。もう少し安くすることはできたでしょう。当時の僕は、過剰防衛になっていました。

 本当はお金がたまってから行こうと思いましたが、そうすると決心が揺らいでしまいそうだったので、ここはあえて先にチケットを予約することにしました。Skyscannnerなどを使うと安くできます。しかし、自分の場合は予約が遅かったせいで(判断を鈍っていたせいです)、予約が取れたのが二週間後のマレーシア航空(クアラルンプール経由で、49720円)しかありませんでした。飛行機のチケット代をもっと安く抑えたいのなら、早めに予約する方が良いと思います。

 明らかにお金が足りなかったので、都内某所の物流センターで14時間労働の日雇いを4日間連続で行い、7万円ほど稼ぎました。支払いまでは時間があったので、装備をそろえる際にはクレジットカードを使うことにしました。エポスカードなどは旅行保険がついていてお勧めです(使いませんでしたが)。

事前準備編:あってよかったもの、いらないもの、あったほうが良かったもの

 次に、いろいろな人のブログを参考にして装備を買いそろえたのですが、思いつく限り、買ってよかったものや要らなかったものを書いていこうと思います。

買ってよかったもの

 日本とは違って、ベトナムは基本的に音量がデカイので耳栓は必須です。壁が薄いせいで原付のクラクションで目を覚まされる安宿、そもそも壁がないバックパッカー向けホステル、ガッタンガッタン揺れる夜行バス...活躍の場所には困らないでしょう。あえて寝ないと割り切るのもいいかもしれませんが、おすすめはしません。バスの中などではアイマスクがあるといいでしょう。

  • モバイルバッテリー

 いざというときの備えになります。必ず持っていきましょう。

買わなくてよかったもの

 スーツケースでもいいです。モンベルで17804円かかりましたが、バックパックは腰と背中が痛くなります。足回りに不安のある場所に行くなら、キャスターが丈夫なものにすればいいと思います。東南アジアに行くと原付に乗る機会があると思いますが、足の間に挟んでくれるので大丈夫です、たぶん。腰に自信のある人はバックパックの方が良いのかもしれません。よほど足回りが危険な場所に行くのでないのなら、スーツケースとバックパックはお好みでいいと思います。

  •  首にかけるタイプの予備財布

 ホーチミンの路上でぼったくりに絡まれましたが、彼は僕の首にかかったヒモを見て、僕が実は金を隠し持っている→カモだ、という判断をしたようです。つまり、ぼったくりにからまれる原因になるので、やめましょう。予備財布なら、一見しただけではわからないような腹巻タイプがおすすめです。

  •  財布代わりのジッパー付きビニール袋

 普通の財布の方が明らかに便利です。ベトナムは現金社会なので、使う機会は多いでしょう。

  •  サンダル

 ベトナムは路上が結構危ないです。石とかゴミとかよく落ちてるし、ブロックが転がってることもよくあるので、足回りは頑丈な方がいいです。ブーツとかにしましょう。サンダルを履いている→ベトナムをナメているカモ、という判断をされる可能性も高まります。

 疲れるせいで全然読めませんでした。 

買ったほうが良かったもの/持って行った方が良かったもの
  • ブーツ

 「サンダル」の項を参照。足回りは固めたほうがいいでしょう。転んだ時に備えて、下にはくものに短パンはやめておいた方がいいと思います。暑いですが,,,

  • インターネット

 こんなのいらんやろ、と思って買わなかったんですが、必要です。SIMカードを事前に購入しておくか、現地空港で購入しておくべきでした。インターネットがなかったせいで、いろいろ不便なことがありました...(後述)

  • コンタクト

 メガネとコンタクトを兼用している人は持って行ったほうがいいです。僕は水事情に不安があったのでもっていかなかったのですが、コンタクトの方が楽です。

  • メモ帳とペン

 価格交渉をやるときに使えます。筆談は便利です。

事前準備:情報収集編

 必ず押さえておくべきなのは、

①食の事情:安全な飯が食えるのはどこか?

日本大使館の場所:本当にいざとなった時に駆け込む場所

③交通事情:信頼できるバス会社(おそらくSin Touristでしょう)は調べ、Grab(東南アジア版Uber)はインストールし、使い方を知っておきましょう。

④宿の情報:安宿がありそうなところをチェック

⑤治安情報:本当にやばそうなところには絶対に近寄らない。どのような犯罪がどの程度発生しているかは押さえておきましょう(スリやぼったくり対策がやりやすくなります)。

ぐらいです。後は知らなくても何とかなります。

 ハノイホーチミンにはEZ Stay Hanoi/Ho Chi Minという価格安めの日本人宿があるので、そこでいろいろ聞いてみるのもいいでしょう。情報収集に力を入れすぎると旅行する気が失せます。ほどほどにしましょう。

 

事前準備はすべて終わりました。家を出て、電車で羽田空港へ向かいます。

続く..