現実モデリング

データとかエンジニアリングとか健エミュとか

Gate of A Naked Young Man

Dom Dom Dom... Dom Dom Dom...

A naked young man is banging on the wall.

Dom Dom Dom... Dom Dom Dom...

 

Man has been banging on the wall for years. There is no wall around the man, no doors, no locks.

Dom Dom Dom... Dom Dom Dom...

 

"Gatekeeper" asked the man.

"Why don't you try to go outside?"

"Because I know that the outside is hell"

 

全裸青年男性の門

ドンドンドン... ドンドンドン.... 全裸の青年男性が壁を叩く。

「ここから出してくれ!」

ドンドンドン... ドンドンドン... 

男性はもう何年もこうして壁を叩き続けている。しかし、男性の周りには壁などどこにもない。ドアもないし、鍵もかかっていない。

ドンドンドン... ドンドンドン...

“門番“が訊ねる。

「どうして外に出ようとしないんだ?」

「外の世界が地獄であることを知っているからだ」

日記2022/02/13

熱を逃せなくなったコンピューターが暴走するのと同じように、捌け口を失った精神は自壊してコントロールを失い、周囲の人間に対して被害をもたらす。俺は精神的なエネルギーが強かったから、常にエネルギーの放出先が必要だった。いろいろなものに次々と手を出しては辞めていった。人に優しくすることもあったし、意図せずして傷つけてしまうことも、故意に傷つけようとすることもあった。常に何かを求めていた。その何かとは何だったのかは昔は分からなかったが、今はわかるようになった。

人生には何か意味があるはずだった。ずっとそう思っていたし、意味を求め続けていた。実際は、人生の意味を求めることそれ自体が捌け口を求める行為の具体例だった。自分がなしてきたこと全ては捌け口を求める行為だった。だから、人生が今まさに目にしているもの、つまり完全な虚無だとわかった時、意味などどこにもなく、ただ意味を求める行為それ自体が埋め込まれたカルマによるものだとわかった時は泣いた。自我が目覚め、今の自己の直接の祖先が形成されて以来泣いていなかったから、6年ぶりに泣いたことになる。

自分が本当にどうしようもない人間であることを理解した時、すぐには受け入れることはできなかったが、幸いにして言葉を持っていた。ドストエフスキーを読んでいなかったら耐えられなかったかもしれないが、読んでいたおかげでなんとかなった。読書行為それ自体も捌け口を求める行為だったが、幸運は意外な形で働く。この場合は読書によって自分の精神状態を表現する言葉を得られたのが幸運だった。自分がどういう状態にあるかを客観視するためには精神状態の言語化は有力なアプローチであり、実現可能性はボキャブラリーの豊かさに左右される。うつ病ドストエフスキーは効く。

捌け口を求める行為は蜃気楼みたいなものだった。近づいた分だけ遠ざかって行く。強く求め、接近するための努力をいくら費やしても、わかった分だけ分からない分が増えていき、やがて飽きてしまう。そのうちもっと良さそうなものが見えてきて、方向転換する。ずっと繰り返しだった。

だから典型的な大学生と同じように、東南アジアへ自分探しの旅に出た。大学一年生の時、18歳の頃だった。旅に何か意味があるかもしれないと思っていて、実際意味を求めながら旅をしていた。返ってきてわかったのは、旅に特に意味はないということだった。ここが推論の出発点だった。「旅に意味はない」という前提条件から「もしかして人生それ自体が無意味だったのでは?」という結論に行き着いた。これが多分19歳の頃だったと思う。思考の流れとしては

旅に意味はない→人生に意味もない→俺って無意味な行動をしていたのでは?

という感じだった。自分が無意味な行動をしていたことに気づいたのは旅をしたのがきっかけだったと言っても間違いではない。ただし、旅意外でも同様の結論に行き着いていた可能性は高い。

時期的なものもあった。ちょうど進学選択が終わって精神的な余裕が生まれた時期だった。進学「選択」なんて言えば外聞がいいが、要するに進学選択とは大学版の内申点競争で、地方公立出身で出身校ネットワークを持たず、サークルに参観するのも億劫で経験者から情報を得ることもできず、かといってズバ抜けて頭が良いわけでもない俺のような人間にとっては分の悪い競争だった。しかも進振り点を獲得しようとする行為自体を俗物根性として見下していた。当然進振り点が良いはずもなかったが、経済学部に進学することくらいはできた。学部が決まるということは、将来がある程度確定するということで、不確実性の減少は精神的余裕に対してプラスに働いた。

精神科に行って睡眠薬抗鬱薬を処方してもらったのも効いた。当時は「体調を整えて時間を稼ぐ」くらいのつもりで処方してもらっていたが、気がつけば2年以上処方を受け続けている。薬で健康が買えるなら安い。健康はレジリエンスを大幅に強化する。

俺は自分がどういう人間なのかをよく理解した。日記を書くようになり、読書の記録をつけるようになった。自分が何を考えていたかを検証可能な形で残すためだ。捌け口を求め続けるのはカルマだからどうしようもない。大事なのは自覚した上で求めること、検証可能な形で記録を残すことだ。同一の自己だからといって全てを覚えている訳ではない。大事だと思っていたことも、記録しない限り全て忘れる。記憶はやがて全て消えるだろう。記録は記憶より信頼に足る。

よく人生に勝敗の概念を持ち込む人間がいるが、この考えは間違っている。生まれてきた段階で既に負けている。リアルワールドにおける勝負とは一回やって終わるものではなく、永遠に続く。勝っても地獄、負けても地獄、だから生まれてきた段階で既に負け。良い負け方と悪い負け方があるだけだ。だから人生の勝敗は考えず、より良い負け方を追求する方向に行こうと思う。ディーセント・ライフ、ディーセント・ワーク?

俺は自分が狂った人間であることを完全に理解し、コントロールすることに成功した。コントロールコントロール….ル…ル

るるるるルル.||rrrrlerrrrrrr

狂うとは何だ?そもそも「狂う」という言葉それ自体が変だ。狂うこととはただ「概念同士の自然な論理結合」を失うことだとロックは言っているが、その自然な論理結合とはどのようにして図られるのか?カント的な理性主義によって計られるのだろうが、そんなものは1+1が2であると言っているようなものではないか?知って何になる。矛盾を起こさないのはコンピュータや機械であって、人間の本質は矛盾すなわち合理性に対する反逆の中にあるのではないか?ならば徹底的に矛盾してみせるべきだ、二重思考のやり方を獲得して、労働とは美徳であると同時に美徳ではないと結論づけることは、人間の脳では非常に簡単だ。

健常者のコミュニケーションはニュースピークだ。俺はニュースピークなんて使わないぞ!健常者式のコミュニケーションにクソを投げつけて、徹底的にこき下ろして破壊してやる。健常者のコミュニケーションはクソ!情報伝達効率性が最悪、傷の舐め合い、毛繕い的コミュニケーション、日和見主義と無関心と俗物根性の成れの果て、イデオロギーの相互承認、スリーウェイハンドシェイク、異常者を検知して排除する差別主義。ぶっ潰してやる!

 

健常者エミュレータ

 

はじめに*1

 原理的には、あらゆる前提条件は特定の個人や状況および主義に結びつけられたステートメントとして相対化することが可能だが、人間の限られた脳ミソを節約するため、この「相対化」は通常特定の範囲内でしか行わない。しかし、前提条件の相対化を厳密かつ広範囲に行い、あらゆる前提条件を無効化していけば「異常者」が生まれる。

 「異常者」とは前提条件を共有することができない人間のことを指す。そして「健常者」とは前提条件が共有された人間のことを指す。むろん「前提条件」は集団ごとによって異なるため、ある集団においては異常者の人間が別の集団では健常者となる、といった事態は起こりうる。「異常者」も「健常者」も、本質的に相対的な概念に過ぎない。

 異常者による行動は健常者には予測不可能なものであり、認知的不協和を引き起こし、健常者のごく限られた脳ミソを食い尽くしてしまう。そのため、健常者は異常者を排除し、自分たちが持つ権益・利益を独占しようとする*2。程度の問題ではあるが、異常者は素でふるまっていると「健常者集団からの排除」という大きな不利益を被ってしまうため、健常者のふりをする必要が出てくる。そこで必要になるのが「健常者エミュレータ」だ。

 健常者エミュレータとは「ある特定の状況をインプットとし、その際に健常者がとるであろう行動をアウトプットとする、思考のシミュレーター」である*3。健常者エミュレータは学習と経験によって精度を上げていくことが可能だ。また、健常者によって独占された世界にくさびをうがち、部分的に破壊し、居場所を確保するために有効な手段ともなるだろう。

 この文章では、健常者エミュレータを定義し、どのように構築していくか説明する。そののちに、健常者エミュレータの精度を上げる方法について説明する。健常者によって支配された場で異常者が健常者のフリをするのは非常な労力と苦痛を伴う行為だが、経済的に生きるためにはしょうがないことなのだろう。 ただし、健常者エミュレータが健常者によるルールの独占をむしろ促進し、健常者による世界の独占を加速してしまうのではないかという疑問点は残る。

 

健常者エミュレータとは何か

 具体例から考えてみよう。雑談をしている最中、相手から以下のような発話があったとする。

「今日は天気が悪くなりそうだね」 

 この場合、健常者であればどのような答えを返すだろうか?次の三つの選択肢の中から選んでみよう。

  1. 「嫌な天気ですね。天気が悪いと気分も悪くなります。」
  2. 「ところで今朝のヤフーニュースのトップ記事みましたか?」
  3. 「だからなんですか?」

 健常者であれば1を選ぶだろう。2は相手の発話を全く受け止めていないことを示している。3は敵対的発言と受け止められかねない発話だ。

もう一つ例を考えてみよう。

「今度子供が産まれるんですよ」

  1. 「そうなんですか。それは良かったですね」
  2. 強産魔がよ 赤ちゃんに存在の許可はとったのかよ?」
  3. 「地獄へまっしぐらですね。お気の毒に...」

 もちろん健常者であれば1を選ぶだろう。

 健常者エミュレータとは、上記の例のように「健常者であればどのように行動をするのか」をシミュレートする思考装置のことだ。行動には発話も含まれるし、自分が健常者である必要はない。健常者とは「自分と前提条件が同じ人間」のことを指す相対的な概念である。あくまでも健常者のふりができていれば十分であり、「健常者のふりをしている異常者」と「本物の健常者(そんなものは存在しないが)」を区別する手段は世界に存在しない。

 より正確な健常者エミュレータの定義は以下のようなものである:

健常者エミュレータは、

  1. 「ある特定の状況」をインプットとし
  2. 「健常者ならとるであろう行動」をアウトプットとする
  3. if~then形式で定義された
  4. 論理の集合体
を構築する思考装置のことである

 if~then形式というのは「このような場合であればこのようなことをする」というくらいの意味で用いている。

 繰り返すが、自分自身が健常者である必要性は全く存在しない。あくまでも仮想的に(実質的に:virtually)健常者が行うであろう思考を擬態できれば、健常者のふりをすることは充分可能である。

健常者エミュレータの構築

 では健常者エミュレータをはいかにして構築されるべきか?以下では、健常者がどのように考えているのかを三つの軸をもとに分解し、整理していく。健常者の思考の軸は三つ存在する。コンプライアンス意識、コミュニケーション能力、善性である。

 人間は矛盾する生き物であり、その矛盾の中に人間としての本質が存在する。①コンプライアンス意識②コミュニケーション能力③善性の三要素は時として互いに矛盾することがあるが、この矛盾により「人間らしさ」を再現することが可能となる。エミュレータは人間の思考に沿ったものでなくてはいけない。人間の思考の本質は矛盾にあり、その矛盾を再現することが「人間の再現」につながる。あえて軸を「三つ」用意する理由はここにある。二つでは少なすぎて矛盾が起きないし、四つ以上では多すぎて思考装置としては失格だ。

コンプライアンス意識のエミュレート

汝の意思の格律が、つねに同時に普遍的法則となるよう行為せよ
―カント『人倫の形而上学の基礎付け』

  「コンプライアンス意識をエミュレートすること」とは、カントの普遍的法則の方式を実行に移すこととほぼ同義である。違うのは、カントでは「普遍的法則」となっていたものが、実社会における法律や「社会通念」と呼ばれるものに置き換わることだけだ。つまり、自分の行動の理由となる規則や原理が、つねに同時に実社会における法律や「社会通念」と同じものになるようにする、ということだ。

 法律とは、明確に定められた刑法、民放、労働基準法など、成文法のことある*4。違反した場合の罰則が定められていない法律も中には存在するが、コンプライアンス意識をエミュレートする場合にはそのような法律も考慮に入れることを推奨する。

 明文規定である法律に対して、「社会通念」は明文規定がある場合と無い場合がある。具体的なものとして考えられるのは、以下のようなものである。

  • ゴミ出しのルール
  • 商習慣
  • ハラスメント行為の防止*5*6
  • 裁判所の判例*7

 コンプライアンス意識は、細かなところは時々の法や社会的な状況によって異なる。しかし、根本的なところは「法律」か「社会的な規則」のどちらかに還元される。「法律」と「社会的規則」に従順であるかのようにふるまうのが、健常者におけるコンプライアンス意識の本質だ。

 仮にコンプライアンス意識がエミュレートされていない場合は相手から「最低限のルールすら守れない人物」とみなされることになる。直接的な罰則が来る場合もある。例えば、労働基準法を守る気がない人間がどのような制裁を受けるかを考えてみれば、コンプライアンス意識をエミュレートできない場合にどのような悪が発生するかわかるだろう。

コミュニケーションがあるかのように見せかけるエミュレート

 「コミュニケーションがうまく取れている状態」は、①相手が言っていることを理解できており、なおかつ②自分が言っていることが相手にうまく伝わっている状態のことを言う。実際に成り立っていなくとも、「あなたはわたしとコミュニケーションが取れていますよ」と相手に認識させる能力が世間的には「コミュニケーション能力」と呼ばれる。

 人間は自分とコミュニケーションが取れない人間を恐れ、敵とみなし、殺してきた。コミュニケーションの取れない人間を積極的に排除することでリスクを回避することには一定の合理性はある。繰り返しになるが、実際にコミュニケーションが取れていなくともコミュニケーションが成り立っているかのように見せかけることは可能だ。

 コミュニケーションがあるかのように見せかけることが必要な理由は、相手に警戒心を抱かせないためだ。「コミュニケーションがとれない相手」に対して警戒心を抱くのは健常者に限ったことではない。

善性のエミュレート

 コンプライアンス意識とコミュニケーション能力だけではアイヒマンが出来上がるだけだ。つまるところ法や社会的な規則というのは過去に多数派によって形成・固定された善であり、過去に善であったものが現在も善であるという保証はない。

 社会的規範の限界を乗り越えるためにエミュレートする必要があるのは「善性」だ。善性とは「善に対して接近しようとする性質」のことである。しかし、「善とは何か」は時代や状況、所属する集団によって異なるため、一概には定義不可能な問題である。

 健常者エミュレータを構成する三要素の中で、コンプライアンス意識やコミュニケーション能力があるかのように見せかける擬態は比較的難易度が低い。コンプライアンスや意思疎通に必要な技術は共通して幅広く求められるものであるため、参考書やメソッド本はたくさんある。しかし善性はそうはいかない。「善とは何か」という問いに答えるのは難しい。

 であるからには、健常者エミュレータの質を決めるのはこの「善性」エミュレータの出来である。善性を擬態するのは難しいが、例えば企業であれば採用情報にある「求める人物像」、大学であれば大学入試のアドミッション・ポリシーなどに書かれている「求める学生象」などが「善として想定されているもの」を推定する際の参考になる。むろんこれらは「建前」に過ぎないため、注意が必要だ。

 マイケル・サンデルは『これから正義の話をしよう』の中で、正義を功利主義・自由・美徳の三つの観点から議論している。サンデルの議論に基づき、善性エミュレータを①功利主義エミュレータ②自由エミュレータ③美徳エミュレータの三つのサブエミュレータから構成する。正義=善性エミュレータを三つの要素に分解することにより、矛盾を表現し、人間の本質すらエミュレートすることが可能となる。

 

 

 コンプライアンス意識・コミュニケーション能力があるかのように見せかける擬態、そして善性があるかのように見せかける擬態―この三要素を軸に健常者エミュレータを構築する。そしてエミュレータのアウトプットをもとに行動し、間違いがあった場合はこの三要素いずれの部分にあったのかを特定し、修正する。正しかった場合はそのままにする。こうして健常者エミュレータは構築される。

 注意すべきなのは、特定の種類の状況においては、これら三つの軸は相互に矛盾する結果を導き出す場合があるということだ。人間は本質的に二つ以上の価値観を持っている、矛盾を抱えた生き物であり、このエミュレータはその矛盾も再現の対象とする。コンピュータは矛盾を受け付けないが、人間は矛盾を抱える。模倣の対象とするべきは人間であり、であるならば矛盾すらエミュレートしてみせるべきである。

 

健常者エミュレータの計算量

 健常者エミュレータを脳内に実装する際に考慮する必要があるのは計算量である。計算量が大きすぎる場合*8既定のレスポンスタイム内に脳内処理を完了させることができずコミュニケーションにラグが発生してしまい、健常者エミュレータを構成する三要素のうち二つ目の「コミュニケーション能力の擬態」ができなくなってしまう。

 健常者エミュレータを正直に計算しようとする場合、計算量はO(N^M)となり、実用的な計算量を超える。したがって、健常者エミュレータヒューリスティック探索を用いて実装されるべきである。

 

健常者エミュレータの矛盾と健常者帝国主義

 ここまで書いていて疑問に思ったことがある。健常者エミュレータの目的は、健常者の思考を擬態することで異常者の生存確率を高めることであった。しかし、健常者エミュレータが健常者によるルールの独占をむしろ促進し、健常者による世界の独占を加速してしまうのではないか、という疑問が浮かんでくるのである。

 健常者エミュレータはあくまでもエミュレータにすぎず、健常者ネイティブの反応速度・精度には及ばない。また、健常者による独占の下で作られたルールを甘んじて受容することになってしまう。英語帝国主義の問題と同様の構図が健常者エミュレータの場合も浮かんでくるのである。「健常者による独占を打破する道具として作られた健常者エミュレータが健常者帝国主義を促進する道具になってしまう」という矛盾をどのように解決するべきか?

 

おわりに

 健常者エミュレータは、言語化されていない前提条件を共有できない者達の生存確率を高めるために脳内に実装される、健常者の思考を擬態する思考装置であり、①コンプライアンス意識②コミュニケーション③善性、の三要素によって成り立っているのであった。実装はヒューリスティック探索を用いて行われる。しかし、健常者エミュレータは非健常者の生存確率を高めるために健常者帝国主義に加担してしまうという矛盾を持っているのであった。この問題は未解決である。

 最後に、健常者エミュレータのもう一つの意義を指摘して本稿を締めくくりたい。健常者エミュレータのもう一つの意義は、本来の自分とは切り離してエミュレータを構築することで、二つ以上存在する自我の境界を明確にし、混同することを防ぎ、アイデンティティ・クライシスを防ぐことである。人格を仮想的(実質的:virtually)に構築することによって、ホスト自我とゲスト自我が混同してしまうことを防ぐことができる。

 

更新履歴

参考文献

 

*1:※この文章は CC BY 4.0 Licenceの元提供される

*2:異常者を排除することは健常者の集団的凝集性を保つために有効な措置となることにも注意する必要がある。異常者ー健常者の対立軸に限らず、マジョリティの心理的凝集性を高めるためマイノリティを差別し排除する行為は歴史上あらゆるところで見られる、人間の愚かな行為である。

*3:インプットをある特定の論理の体系に基づいて処理し、結果をアウトプットする行為を「シミュレーション」もしくは「シミュレート」、論理体系をまねることそのものを「エミュレーション」もしくは「エミュレート」と呼ぶが、この二つの単語はinterchangeblilyに用いられる

*4:第99条によれば、日本国憲法を守る義務があるのは「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員」となっている。したがって、国民に守ることが義務として課せられているわけではない。確かに、憲法の文面では勤労の義務や納税の義務がかかれているが、日本国憲法は国民が守ることを想定して作られたわけではない。

*5:事業主にとっては明文規定された義務である

*6:

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/index.html

*7:裁判所の判例には「社会通念上許されるかどうか」が判断基準の一部をなしているものは数多い。

*8:処理速度が低すぎる場合も考えられるが、以下では計算量が大きすぎる場合を想定して書き進める。