現実モデリング

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日記2022/02/13

熱を逃せなくなったコンピューターが暴走するのと同じように、捌け口を失った精神は自壊してコントロールを失い、周囲の人間に対して被害をもたらす。俺は精神的なエネルギーが強かったから、常にエネルギーの放出先が必要だった。いろいろなものに次々と手を出しては辞めていった。人に優しくすることもあったし、意図せずして傷つけてしまうことも、故意に傷つけようとすることもあった。常に何かを求めていた。その何かとは何だったのかは昔は分からなかったが、今はわかるようになった。

人生には何か意味があるはずだった。ずっとそう思っていたし、意味を求め続けていた。実際は、人生の意味を求めることそれ自体が捌け口を求める行為の具体例だった。自分がなしてきたこと全ては捌け口を求める行為だった。だから、人生が今まさに目にしているもの、つまり完全な虚無だとわかった時、意味などどこにもなく、ただ意味を求める行為それ自体が埋め込まれたカルマによるものだとわかった時は泣いた。自我が目覚め、今の自己の直接の祖先が形成されて以来泣いていなかったから、6年ぶりに泣いたことになる。

自分が本当にどうしようもない人間であることを理解した時、すぐには受け入れることはできなかったが、幸いにして言葉を持っていた。ドストエフスキーを読んでいなかったら耐えられなかったかもしれないが、読んでいたおかげでなんとかなった。読書行為それ自体も捌け口を求める行為だったが、幸運は意外な形で働く。この場合は読書によって自分の精神状態を表現する言葉を得られたのが幸運だった。自分がどういう状態にあるかを客観視するためには精神状態の言語化は有力なアプローチであり、実現可能性はボキャブラリーの豊かさに左右される。うつ病ドストエフスキーは効く。

捌け口を求める行為は蜃気楼みたいなものだった。近づいた分だけ遠ざかって行く。強く求め、接近するための努力をいくら費やしても、わかった分だけ分からない分が増えていき、やがて飽きてしまう。そのうちもっと良さそうなものが見えてきて、方向転換する。ずっと繰り返しだった。

だから典型的な大学生と同じように、東南アジアへ自分探しの旅に出た。大学一年生の時、18歳の頃だった。旅に何か意味があるかもしれないと思っていて、実際意味を求めながら旅をしていた。返ってきてわかったのは、旅に特に意味はないということだった。ここが推論の出発点だった。「旅に意味はない」という前提条件から「もしかして人生それ自体が無意味だったのでは?」という結論に行き着いた。これが多分19歳の頃だったと思う。思考の流れとしては

旅に意味はない→人生に意味もない→俺って無意味な行動をしていたのでは?

という感じだった。自分が無意味な行動をしていたことに気づいたのは旅をしたのがきっかけだったと言っても間違いではない。ただし、旅意外でも同様の結論に行き着いていた可能性は高い。

時期的なものもあった。ちょうど進学選択が終わって精神的な余裕が生まれた時期だった。進学「選択」なんて言えば外聞がいいが、要するに進学選択とは大学版の内申点競争で、地方公立出身で出身校ネットワークを持たず、サークルに参観するのも億劫で経験者から情報を得ることもできず、かといってズバ抜けて頭が良いわけでもない俺のような人間にとっては分の悪い競争だった。しかも進振り点を獲得しようとする行為自体を俗物根性として見下していた。当然進振り点が良いはずもなかったが、経済学部に進学することくらいはできた。学部が決まるということは、将来がある程度確定するということで、不確実性の減少は精神的余裕に対してプラスに働いた。

精神科に行って睡眠薬抗鬱薬を処方してもらったのも効いた。当時は「体調を整えて時間を稼ぐ」くらいのつもりで処方してもらっていたが、気がつけば2年以上処方を受け続けている。薬で健康が買えるなら安い。健康はレジリエンスを大幅に強化する。

俺は自分がどういう人間なのかをよく理解した。日記を書くようになり、読書の記録をつけるようになった。自分が何を考えていたかを検証可能な形で残すためだ。捌け口を求め続けるのはカルマだからどうしようもない。大事なのは自覚した上で求めること、検証可能な形で記録を残すことだ。同一の自己だからといって全てを覚えている訳ではない。大事だと思っていたことも、記録しない限り全て忘れる。記憶はやがて全て消えるだろう。記録は記憶より信頼に足る。

よく人生に勝敗の概念を持ち込む人間がいるが、この考えは間違っている。生まれてきた段階で既に負けている。リアルワールドにおける勝負とは一回やって終わるものではなく、永遠に続く。勝っても地獄、負けても地獄、だから生まれてきた段階で既に負け。良い負け方と悪い負け方があるだけだ。だから人生の勝敗は考えず、より良い負け方を追求する方向に行こうと思う。ディーセント・ライフ、ディーセント・ワーク?

俺は自分が狂った人間であることを完全に理解し、コントロールすることに成功した。コントロールコントロール….ル…ル

るるるるルル.||rrrrlerrrrrrr

狂うとは何だ?そもそも「狂う」という言葉それ自体が変だ。狂うこととはただ「概念同士の自然な論理結合」を失うことだとロックは言っているが、その自然な論理結合とはどのようにして図られるのか?カント的な理性主義によって計られるのだろうが、そんなものは1+1が2であると言っているようなものではないか?知って何になる。矛盾を起こさないのはコンピュータや機械であって、人間の本質は矛盾すなわち合理性に対する反逆の中にあるのではないか?ならば徹底的に矛盾してみせるべきだ、二重思考のやり方を獲得して、労働とは美徳であると同時に美徳ではないと結論づけることは、人間の脳では非常に簡単だ。

健常者のコミュニケーションはニュースピークだ。俺はニュースピークなんて使わないぞ!健常者式のコミュニケーションにクソを投げつけて、徹底的にこき下ろして破壊してやる。健常者のコミュニケーションはクソ!情報伝達効率性が最悪、傷の舐め合い、毛繕い的コミュニケーション、日和見主義と無関心と俗物根性の成れの果て、イデオロギーの相互承認、スリーウェイハンドシェイク、異常者を検知して排除する差別主義。ぶっ潰してやる!