現実モデリング

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管理人にとっての健常者エミュレータ事例集:社会に対するハクティビズム

始める理由と続ける理由は違う。

2022年の2月、大学卒業直前になって、健常者エミュレータ事例集の取り組みを始めた理由は2つある。 一つは自己顕示欲であり、インターネットの巨大な海の中で自分がここにいると示したかった。情報が濁流となり、歴史の一文字も満たさず消えていく人が大半の中で「我ここにあり」と示したかった。大学生なら誰しも似たようなことは考えると思う。 もう一つは自分にとって必要だったからだ。これからの人生を考えた時、自分に常識が欠如しているのはわかっていた。常識、つまり社会の中で一般的とされていることが何なのかを知るための、情報収集装置が必要だった。

続けている理由はよくわからない。広告を貼れば収入になると思いGoogle Adsenseを導入していたこともあったが、大して金にもならず、UX上邪魔なのでやめてしまった。 始めたばかりの頃はユーザーからのフィードバックが嬉しくて続けていたが、最近はその声もあまり聞かない。 寄付も受け付けているが、寄付金頼みが成功するはずもない。WikipediaやUNHCRですら寄付金の募集には苦戦しているというのに、月間PV数が10万件程度のサイトがうまくいくはずはない。

自分の仕事はエンジニアなので、実際のWebサービスを利用して技術を試すのはキャリアの役にたった。 続ける理由の一つではあるが、他の手段でも代替可能であり、決定的な理由ではない。

インプットと実践を繰り返してコミュニケーションの実践経験を積み、社会人生活を続けていく中で、コミュニケーションにおいては特段大きな失敗をすることは無くなった。 だから「今の自分には」健常者エミュレータ事例集は必要ない。

ただしこの世界には健常者エミュレータ事例集を必要とする人はいる。 公立の中学に通っていた頃、隣に座っていた同級生は、卒業後に麻薬の使用で捕まった。 別の同級生からは「あなたは頭いいからいいかも知れないけど、私はお先真っ暗よ」と言われた。 高校・大学以降は偏差値の高いところにいたが、あそこにいた人たちは上澄みなんだと思う。 「首都圏だが、東京都内ではない、公立の中学校」の中で体感したリアリティが今の自分の根底になっている。

「常識」は言語化されることはない。冠婚葬礼のマナーなんて簡単な方で、ググればわかる。 だが、「何もしなくていい場合がある」なんて誰が教えてくれた?

healthy-person-emulator.org

「常識」をスクリーニングの基準としてバリアを作る一方、その常識そのものを言語化せず、暗黙の知識に留め、自分たちの利益を独占しようとする集団は実在する。利益のためではなく、うまく言語化できないだけかも知れない。だが、知識の独占を破壊することの必要性は変わらない。独占は悪を生み出す。結果として生まれた悪のツケを払うのは常に社会的弱者の側だ。

健常者エミュレータ事例集は社会に対するハクティビズムとしてやっている。月間5000円で社会への復讐ができるなら安いものだと思う。